ゆゆ式3話自販機の違和感から考える衒いと外連味の極限閉軌道

 TVアニメ「ゆゆ式」が語られるれるときに頻繁に話題に持ち出される第3話。

 ある炎節の黄昏時に温暖湿潤の隙間で展開された自動販売機前での一連の模様。

 語り草となったシーンに内包されたある違和感を改めて考える。

映像と演出の美しさ、ただしそれだけでは終わらなかった

 はじめに、アニメ作品として、さらに言えばシーンとしての美しさの話と、 それがゆゆ式であるか否かという評価は、別の軸で語られるべきあることを説明しておく。 「それがゆゆ式であるか否か」という表現はあえて大雑把な解釈をとっており基準が明確にあるわけではなく、 個人的な感覚に過ぎないので勝手に解釈してほしい。 大仰に違和感という言葉を表題に掲げながら、一方で言い訳がましく聞こえるかもしれないが、 あのシーン単体としては非常にわかりやすく、丁寧に作られているのだと思う。

 色使い一つを例にとっても、夕暮れの景色の色が、ゆずこの桃色と縁の紫色との絶妙なほどの調和を見せている。 それから、シリーズ構成を担当した高橋ナツコさんへのインタビュー*1の書き起こしでも、それは特徴的なシーンとしてクローズアップされている。

ゆずこと縁の2人が自動販売機の前でジュースを投げ合うシーンと、その後のゆずこ1人だけのシーンの対比を作ることで、縁がいなくてさみしいって気持ちを、モノローグではなく描写のなかで自然と見せられたらなと。

 同様の内容は情報処理部のライフログ*2でも語られている。

ゆずこと縁が缶ジュースをパスしながら帰るシーンはオリジナルなんですけど、そこに会話やモノローグがないほうが「ゆゆ式」らしいということで、~(省略)

 これらが示しているように、あえて言葉を使わない演出を選択したことが明確に表明されている。 3人組の日常と2人組の日常の対比を視聴者へわかりやすく伝える強い意思をもって描かれたこのシーンは、 ともあれゆゆ式が外部に見せる一つの側面を切り取っていたのだと思う。 別の話にはなるが、この2人の状態というものは、おそらくゆゆ式を考える際に非常に大きな役割を果たすことになる。 しかし今回はその部分の追求はほどほどにしておく。

 さらには、同書ライフログにおいて櫟井唯役の津田美波さんもこのシーンについてこんな言葉を残している。

自販機で買ったジュースの缶をパスしあうシーンがすごく好きだったりします。~(省略)、別の日に1人での帰り道でジュースを買うゆずこも好きですね。

アニメーションとして、展開としての気持ちよさは確かにあるシーンであることは間違いない。

衒いと外連味の所在、そして感じた違和感の先に

 さて、そんな美しさを持つこのシーンから違和感はどのようにして発生したのだろうか。 自分は、『ゆゆ式では てらい と けれんみ はキャラに紐付いておりそれらは(広義の)会話・コミュニケーションの中でのみ発現し回収される』 という原則があり、自販機のシーンはその基準からやや逸脱している事により発生していると考えた。 自明な部分を多く含むと感じる人もいるかもしれないが、長い間ぼんやりとしていたものを、 自分の中で1つの区切りをつけられたという話でもあるのでご容赦願いたい。

 また、ここで注意したいのは、ゆずこと縁の関係性に今更の疑問を持っているわけではないこと、 更には、ここに唯がいないことなどは全く問題にはしていないことである。

原作の振り返りとアニメシーンの分解

 まずは原作部分を振り返りたい。 これまで述べたように自販機前で電話を受ける側の描写とその後に続くカットはアニメオリジナルとして付加されたものであり、 直接対応する部分は原作にはない。 原作ではコミックス1巻76ページがそのカットへつながる部分となる。 いつものように櫟井家で話をする3人、帰れと言っても帰ろうとしないゆずこと縁がやっと帰ったのを見届けたのちに、 一段落ついた唯が静寂に包まれた自室にて、縁に電話を掛ける。 ここでは、夜道を帰る縁を案ずる言葉をかけたところでシーンは終わる。 つまり、ゆずこと縁サイドからのカットは一切ない。

 次にアニメのシーンをもう少し分解して捉えると、 まず、唯は縁に対して電話越し、暗くなると物騒だぞという言葉を発して、 それに2人ではーいと応答する。 違和感の根源はここからのカットであり、 自販機を遠巻き左奥においた固定視点で、 ゆずこと縁が缶ジュースをキャッチボールしながら視点に対して前方に走ってくる。

視点と余韻

 この視点とシーンの余韻が違和感の正体だった。 ゆずこと縁の、このてらいのないやり取りから生まれた状況に対して、 遠巻きに見守るような視点が大きくけれん味を与えている状況があり、 特に茶化しや落ち、照れ(このツイート*3の照れという考え方には大変影響を受けた) がないまま余韻が残る構成になっている。これはなんとも自分にとって非常に口うるさい視点だった。

 またもう一つ、視点だけではなく一連の流れの終着点の問題もある。 このシーンは、ジュースのやり取りの余韻を保ったまま星空によって絞められる。 ジュースのやり取りでゆずこがジュースを落とすことも、1人のゆずこが独り言をいうことも、唯に電話を掛けることもない。

 この視点と余韻は非常に厄介で、なんとも言い難い渇求に満ち満ちていたし、 同一の画角を保ったまま観察者としての自分が取り残されただけでは飽き足らず、 余韻が波及してきてしまっている。 この余韻は本来我々が受け取るべきではない余韻だった。

 自販機のシーンは後半のゆずこ単独でのそれと対になっており、 この前後半がセットで対比が際立つ構成となっている。 場面としての異質感としては11話で繰り広げられた縁の将来の話もあるが、 この話の場合はその場(部室)と移動中の廊下で、その異質感を本人たちに回収されている。

 おそらくこの3人の中での、いわゆるてらいのない会話は、ゆゆ式の中ではけれん味として回収されることが圧倒的に多い。 そして、逆にけれん味によって回収されなかったこのてらいなさを人は美しいと感じている。 ただしかし、ノーイベント・グッドライフの余韻は、お前が一人称で浸るものではないということを同時に突きつけられる。

お前の中のゆゆ式とはなんなのか、実のところわからない

 そんなもんわかるかい、ってことなんだけど、あるゆゆ式の一側面が、 ほうぼうで語られている3人の関係性の維持にあるという説に立脚するならば、 やはり、第一義としての個々人の言動への着目もさることながら、 その言動は明確に作中他者に評価されていることにも言及しなければならない。

 ゆずこを例に取ると最も分かりやすいと思われるが、 あるゆずこの言動を仮定した時に、(1)ゆずこ本人のセルフツッコミ、(2)縁が笑うのか、相乗りしてくるのか、(3)唯がどのようにツッコミをいれるのか、 といった(順不同、あくまでも一例)、明確な判断が多角的に下されて場が決定する。 すなわち、この3人の関係性は非常に社会的な合議処理の連続によって維持されている。

 そしてもう一つ重要なことは、その合議の破れが顕著に見える2人の状態(3-1の関係性)を読み解くことが、 受手に対して同時にその小さなすれ違い・掛け違いの発露を強く引き起こすことである。 現にこの3話は、縁の海外旅行をベースに自販機のシーンを利用することによって ゆずこと唯の2人の状況を際立たせて提示している。

最後に

 夏休みのはじまりを宣言するところから始まるこの第3話は、 第1話の「ペロッて取ってー」、第2話の「なんつってっつっちゃった」を経て3人の関係性を視聴者に対して強く印象づけた後に、 この3-1の関係性を提示することで、ゆゆ式を受容する上での大きな役割を果たしていると考えている。

 ここまで駄説を垂れ流しておきながら、 おそらくアニメとして成立させるという高い視座に立った総合的・技術的な判断と、 自分のようにあるシーンを切り取って屁理屈をこなしかえしているだけの視点を比較するまでもないけれど。

 要は見てくれとしか言いようはないのだが、 どうやら幸運にもこのタイミングでTVアニメ「ゆゆ式」を無料で見られる機会があるらしい。 いやはや、なんというか、偶然って怖いですね。 配信期間は「7月7日(土)0時00分~7月15日(日)23時59分」です。

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Featured image is used under CC BY-NC-SA 2.0 license. Coke. Anyone? | Looks Better On Black | Michael Chen | Flickr, December 21, 2008.


*1:AniFav, 総力特集! アニメ『ゆゆ式』(2)――シリーズ構成・高橋ナツコ インタビュー 「普通のアニメでは当たり前のことが『ゆゆ式』では当たり前じゃない」(中編)]

*2:ゆゆ式 TVアニメ公式ガイドブック~情報処理部のライフログ~、http://www.dokidokivisual.com/comics/book/past.php?cid=812

*3:https://twitter.com/uasi/status/691982321528877057