平成最後の9月のサクレ

サクレ復古の大号令

かのサクレはどこか儚げながらも、満足した表情につつまれていた。

サクレ類憐れみの令

果たしてそれがサクレであることを、幾人が認識していたのだろうか。

樺太サクレ交換条約

サクレと呼ばれたそれを、君はサクレと呼んだ。

出陣サクレ壮行会

サクレの瞬きとサクレ色の風

サクレ田門外の変

サクレヶ丘へ続く道すがら

ペンギン・ハイウェイでアオヤマ君にドジスンの影を見る

はじめに

劇場版のペンギン・ハイウェイは原作を未読のまま、ほとんど情報らしい情報も入れずに映画館に見に行ったけれど、 メタ語りのネタに尽きない作品だった。 『ソラリス』との関係に基づいて語っている記事はいくつかあるけれど案外アリスの視点から語っているものは少ない。 『鏡の国のアリス』の書籍が作中そのまま出てきているためかもしれないが、それだけでは終わらない。

穿った見方であるがこの作品は、 チャールズ・ラトウィッジ・ドジソン(ルイス・キャロル)の鏡の国のアリスと、 ルネ・マグリットピレネーの城・ゴルコンダを利用した、 ノンセンスとシュルレアリスムの代理戦争とも読み解ける。

チャールズ・ラトウィッジ・ドジソンの輪郭

結局、ハマモトさんのチェスとか(鏡の国のアリスはチェスの進行とともに物語が進む)、 お姉さんのジャバウォックとかいうキーワードマッチ的な関連性からもう少し踏み込んで考え始めたのがことの発端である。 ハマモトさんのその風貌は日本とは別の国の血を引いている佇まいで、チェスをしているのでこれはそもそもアリスなんだというはすぐに分かった。 『ソラリス』の文脈で語られる【海】はそのままではあるが、同時に世界と鏡の中の世界の表裏(現実と【海】の中の世界)は、 鏡の国のアリスの構造そのものとも言える。 先に述べた、チェスやジャバウォックのような作中に散りばめられたアイテムと、 川のループ構造(元いた場所に戻ってくる)などは鏡の国にも出てくる装置である。

最初に、アオヤマ君の面倒臭さは、森見主人公の面倒くささのバリエーションなんだろうと思っていたが、 物語が進むに連れて、もしかしてこれはドジソンがモデルなんじゃないか?という意識が強くなっていった。 ドジスンとは、鏡の国のアリスの作者である、ルイス・キャロルであり、 本名をチャールズ・ラトウィッジ・ドジソンという。

アオヤマ君=ドジスンと思ったタイミングは2つある。 1つ、ドジソンは、数学者(研究者)であったこと、 論理学に非常に大きな興味があったことが挙げられる。 そしてドジスンは吃音とASD自閉症スペクトラム障害)を持っていたと言われている。 スズキが持っているハマモトへの好意をアオヤマ君が理解できないシーンが何度か繰り返される。 スズキが行うハマモトへの「いじわる」の裏側をアオヤマ君は読み取れない。 ああ、劇中での研究という表現の連呼、異常とも形容できる周到な研究ノート、 そしてこの点によって、アオヤマ君とドジスンの相似性が浮き彫りになった。

ノンセンス視感での登場人物の整理

ここで、アオヤマ:キャロル/ドジソン、ハマモト:アリスという見方はできるが、 ではお姉さんとはなんなのか。それはおそらく、アリス・リデルなのではないかと考えている。 アリス・リデルとは、不思議の国・鏡の国の登場人物であるアリスのモデルとなった人物である。

アオヤマ = ドジソン説をベースに、ノンセンス文学の代表格であるアリスシリーズを前提にすると色々説明できる。 俗な言い方をすると、少女愛(ドジソン - アリス・リデル)をおねショタ(アオヤマ - お姉さん)に変換しているという見方である。 (様々な新説等も展開されているようではあるが)ドジスン(ルイス・キャロル)は少女への強い愛着があったことは有名な説であろう。 アオヤマ君がハマモトにはあまり興味を示さないこと(同年代への無関心)の一方でお姉さんへの強い興味はこの入れ替えと考えることは出来ないか。

そしてペンギン・ハイウェイという物語には、 お姉さん(=アリス・リデル)と同時に、ハマモト(=アリス[鏡の国]])が存在していること、 そこに、キャロル自身もアオヤマとして存在していることの面白さ。 概念の逆転や重複はまさにノンセンスの文脈として語ることができる。

さいごに

物語の最後には、アオヤマ君とお姉さんはその袂を分かつことになる。 アリスと離れてしまうことは、更にメタ的なドジソンの当時の状況から説明できる。 不思議の国が出版されたころ(1865年)は、現実のドジソンとアリス・リデルの関係は良好だったと言われている。 そもそも不思議の国のアリスは、リデル家の三姉妹に対して語った物語がベースになっている。 その後、そこから鏡の国が出版される約7年間のうちに、その関係は悪化している。 ここは色々な要因があったと言われているが、 いわゆるルイス・キャロルが少女に対して持つ愛情が大きな要因の一つとも言われている。

最初に森の奥の【海】を見た瞬間には『ソラリス』ではなく、ルネ・マグリットの「ピレネーの城」が連想された。 その連想はあるいみ間違ってはいなくて、終盤のシーンはそのまま、マグリットの「ゴルコンダ」であった。

物語の最初と最後に「シュルレアリスムの世界」を印象づけて、 その間を「ノンセンスのストーリー」で紡いでいるように見えたこの作品は、 なにか非常に脳を動かすきっかけとなるものだった。

参考